「ぬるまゆ」福岡 〜 都市の脱固有性


だいぶん前の話で恐縮だが、2008年4月25〜29日にデザイニング展というイベントをやっていた。以下のようなコンセプト。

今年で4年目を迎える「DESIGNING?展」が、いよいよ開催。2008年は「ON」をテーマに掲げ、50組を超すデザイナーやショップが、それぞれの価値観をもつデザインを、福岡の街というテーブルの上に並べていきます。デザインを考える5日間、想像力をONにして、デザインと遊びませんか。


たまたま天神を通ったので、いくつか展示をみて「ふーん」って感じだった。

でも、その中で極めて鮮鋭に印象に残ったのが、VIOROの地下で学生さんがやってた「学生×DESIGNING展」。この展示が一番アクチュアルな福岡を、極めて素朴に表現していたので、その感想と考察を書きたいと思う。


まずコンセプトが「ぬるまゆ」。読むと、デザイナーや都市計画家、まちづくり実践家にけんか売ってんのか、といいたくなるのが、まず挑戦的。

今回で4回目を迎えるデザイニング展。対照的に学生展は初めての試み。
ここで私たちが考えるデザインとは、いかに日常のデザインがデザインされているかというより、どのくらいのぬるまゆでデザインされているのがちょうど良いのか。デザインをデザインと呼ばずしも、程よくデザインされている。その程度に焦点を当てたい。
ぬるまゆな都市にぬるまゆなデザインを。「ぬるまゆ=ちょうど良い」今の福岡。
一見ちょうど良い(=ぬるまゆ)と思ってやっていることそれは本当に良いのか。現状を流して見ないで、ふと立ち止まって考えて欲しい。今の温度がちょうど良いのか。現状に対して問題提起をして欲しい。程よい福岡に、程よいデザインを。


で、一番面白かった作品が、「おととび」(※ オフィシャルサイトがなかったので、その作品を紹介してあるブログを引用、写真はそちらを参照)。


作品では、SAPPORO、KOBE、FUKUOKAとタグがしてあるイヤホンが並べてある。手にとって聞いてみると、街路の騒音のような、まったく面白くない、ほぼ同じ音が聞こえた。
ので、「全部おんなじ音に聞こえますね」と学生さんに聞いてみたら、「いや、実はこれ全部同じ音が流れていて、いかにタグに書いてある文字に印象が左右されるかという作品です。おもしろいでしょ。」みたいなこといわれて。
瞬間的にカチンときて、そんな不快なコミュニケーションするために作品つくってんの?おんなじ音ってすぐわかるよ!これで何をデザインしてんの?これで福岡を語ったつもり!?、ってかなり憤りを感じて、大人気なく無言で苛立ち気味にその場を立ち去ったのですが。


しかし、あとから冷静に考えてみると、ある意味、福岡のぬるま湯感に骨抜きにされている現状を、若い感性で素朴に表現した作品なのかな、と。どの都市も一緒だ、都市空間に皆さんが期待しているような幻想や個性なんかねえよ、と。そういったものが素朴に表出しているのかな、と。

飛躍すると、福岡のまちづくりの認識論の大きな変容としても考えられるだろう。これまでは「リトルトーキョー=福岡」の構図を感覚としては理解しつつも、「いや、しかし福岡の個性は、、、」と対抗していく、というのが福岡のまちづくりの方向性だった。

しかし、この作品では、もはや福岡の「没」個性化は終了しており、その没個性的な福岡を、福岡の個性として認識する層がでてきていることが見て取れるのではないか、と深読み。感想を書いていた他のブログにもあったが、デザインというよりはアート。


その辺、おじさん・おばさん達は肝に銘じて置かねばならない。そのほかのデザイナーやらショップの作品は、福岡の現状を見ずにつくったイマジナリーなデザインだといえるのではないか(まあ、デザイン展でアートしてる学生さんたちがずれてるのか?)。

まあこのように、この作品を見てから、悶々としたり盛り上がってみたり、なんだか整理できずにいるのですけど。